“母”にならない姉の妹ーー映画『違国日記』

6月7日より、映画『違国日記』が公開されている。両親を交通事故で亡くした15歳の朝と、人付き合いが苦手な小説家の槙生。二人の不器用な同居生活を優しく綴った物語である。

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槙生に扮するのは新垣結衣。槙生のぶっきらぼうだが、どこか温もりと芯のある絶妙なニュアンスを熱演。そして、彼女が一緒に暮らすことになる朝を、オーディションで抜てきされた早瀬憩が純度高く演じている。

上映時間は2時間19分と、少し長く感じるかもしれない。だが、それだけ全てのシーンがごく繊細に描かれており、彼女たちの重ねる日々や言葉、感情を追うには必要不可欠な時間。観ている間は、ずーっと心地がよかった。

“親”というバトンを繋がないこと

ところで最近偶然にも、同じくきょうだいの娘を引き取る『かわいすぎる人よ!』という漫画を読んだのだが、本映画との共通点を感じていた。

『違国日記』は、両親を交通事故で亡くした朝が、妻側の妹である槙生に引き取られ、同居するところから始まる。ここで注目したいのは、槙生が“母”になろうとはしていないことである。また、同時に“母の代わり”になろうともしていない。あくまでフラットに、姉の子どもである朝と付き合っていくのだ。

一方、『かわいすぎる人よ!』は、親を亡くしたメイが、妻の弟にあたる史朗と同居する物語。史朗はメイを溺愛しているが、“親”のように振るまうわけでも、“親”になろうと気負いしているわけでもない。日々、姪であるメイの成長を見守る“叔父”として存在しているのである。

また、それは槙生や史朗側だけではなく、朝やメイの子ども側も同じである。彼女たちを“親”ではなく、“母の妹の小説家の槙生ちゃん”と“かわいくてキレイな自慢の叔父さん”として見ているのだ。

槙生は、朝に対してこう言っている。

私のあの人への感情は私だけのものだから、誰にも変えられない。

あなたの葛藤や焦りを理解できないように、別の人間だから感情を分かち合うことはできない。

家族だけれど“母”や“父”にはならない(なれないともいえる)、また、私たちは一個人である。この熟していない距離感が、槙生や史朗の心の再生と、朝とメイの居心地のよさを両立させているのだと思う。つまり、姪と家族になるには、“母や父”にならないことーーと、全く別の二つの物語がそう語っているのである。そういえば、『スキップとローファー』の美津未とナオちゃんもそうなのでは(美津未のご両親はご健在だが)……。

“姉”と“母”の棲み分け

先ほど、”再生”と書いたが、朝との暮らしは槙生の心に変化をもたらしていく。他人と生きるのは無理と思っていた槙生が朝と暮らし、誰にどう思われても気にしなかった槙生が朝の感情を気にするように。

さらに、その変化は家族問題へも及ぶ。「姉の子どもである朝を愛せるかはまだわからない」と放つほど姉を嫌う朝は、のちにこう言う。

いい姉じゃないけど、いいお母さんじゃん

槙生の家族である姉への感情は、槙生のものだから変えられない。しかし、朝の家族である姉、すなわち朝の母への感情は変化を見せたのである。姉への感情が直接的に変わることではなく、自分の家族としての姉と朝の家族としての姉が分別できたことーーそれがなによりの槙生の変化であり、癒しだったのではないだろうか。

『かわいすぎる人!』の史朗もまた、姪のメイにより心が解かされる場面がいくつもある(ぜひ読んでほしい)。“親子”にならない関係性を築く他方で、この二つの物語には、大人の“再生物語“という側面もあるのかもしれない。

映画『違国日記』|大ヒット上映中